ブータンの首都ティンプーでのワークショップを実行するべく現地に滞在するアーティスト五十嵐靖晃と北澤潤の日記。

2011年4月8日金曜日

4日後 北澤潤

201146

 

 東北道を北上する。ブータンから帰って4日目だ。

短い時差の影響か、ひさしぶりの長距離運転だからか、眠気が襲う。その都度SAにより短時間の仮眠をとる。ちゃんと東北にくるのが初めての私にとっては、東北道の風景すら新鮮である。これから見ることになる風景をおもうとどうしたらいいのかわからない気持ちになる。

 

 白石ICをひたすら目指して進む。長く感じる道のりだ。ICを降りてからも長い。大通り沿いの店並みは関東の郊外地区と似ている。通常通り営業しているようだ。

 

東に、海岸にむかって進む。国道4号と6号が交わるところで右折するはずが通り過ぎてしまい、引き返す。6号を走り、南下。常磐道に乗り一区間分はしる。海岸線からすこしはなれて並行している高速道、もう日が暮れて来ていたので見えにくかったが、左をみてもとくに変わった所はないように思えた。しかし、もうしばらく行くと異変に気づく。広大な畑に無数の車がちらばっている。ひっくりかえったり横転しているものがたくさん見えた。この世の異景を垣間みて、絶対に見てはいけないものを見たような感覚に陥る。車を走らせる。

 

目的地の福島県相馬郡新地町に近づく、6号をはしりながら時々横道にそれるが、道はみつからず引き返す。行き止まりだったというより、地面や大きな木の根っこがめくれ上がったような奇形の地表に恐れを感じて戻っていった。

 

ようやく新地町にはいる。ここには徳島県で知り合った友人であり旅人の西川さんが前日に入っていて、彼に会うためにきた。会って情報交換したら、北上し明日は亘理地区でボランティアをしようと考えていた。

 

商品の少ないコンビニに停車して電話すると、西川さんが出た。さらにさきにコンビニがもうひとつあるからそっちに来て、という。車で数分。2月に徳島を訪れて以来、こんなに早く再会することになるとは思っていなかった。

 

いまこのちかくのお家にお世話になっているらしく、話したらつれておいで、と言われたということで、私も向う。西川さんは日本を旅していた時にここ新地にお世話になったそうだ。

 

家に入ると、陽気なお母さん2人が焼きそばを作っていた。こんな展開になるとは思っていなかった。車中泊するつもりで食料も全て用意してきたのだが、食事をお家ですることになった。いろんなことを話した。震災以外の事もかなり多く話したが、地震と津波がきた時の話は、二人とも静かな絶望感をふくんでいたように思えた。

 

「前は聞こえなかった波の音が聞こえるのよ。遮るものがみんななくなっちゃった。」

お風呂を入る前にゆみこさんが言った言葉だ。

 

明日は早く起きて西川さんの動きにとりあえずついて様子を見ながら迷惑そうであればボランティア受け入れができている亘理地区にいくかもしれない。新地町はまだボランティアの受け入れ態勢が全く整っていないのだ。

 

 

 

9日目 写真

9日目 北澤潤

201142

 

 寝グセを抑えながら車にのりこむ。出発の時間。

ティンプーからパロへの陸路、地元の学校がマラソンをやっていた。

ブータンの若者のシェアハウスにつれられ、さらにダンスホールにまでつれられた昨晩のせいで山々の景色と睡魔が交差する。

 

 パロ空港に着いて、胸ポケットのパスポートを確認、ガイドのリンチェンさん、ドライバーのティンレーさんとお別れ。この二人には本当に笑わされた。「こんかいガイドはいつもとちがくておもしろかたです、はい。」と言われて、また来るときはガイドお願いしますと返した。

 

 尾翼の国旗を写真に撮ってから、飛行機に乗り込む。

 

座席に座って振り返る。

 

基本的な生活をまずどうつくっていくかという思考を迫られている小さな国ブータンの今を感じ、それは都市に向うのではないのだ、むしろチマチマと家を共につくる姿に見えない可能性があるのだ、という意見をカタチにしていく未来のアクションを想像する。現在構築中のこの場所にとって我々の更なる活動が機能していかなければいけないのだと、とても主観的に自分のカラダの在り方を確認して。

 そして、それはどこでも変わらないのだと思いたい。日本だってブータンだって変わらない。今後いくつもの異なる現状をもった地域社会に出くわし活動することになると思うが、そのとき自分が最もできることを握りしめて、真っ向から其処に居る人たちと関わっていく。いくつものコトバに板挟みになりながらも動き続けた10日間の終わり。離陸直後のドゥルクエアー。果てなく青い空の上から、普段考えていることを恐ろしい程の実感とともにもう一度噛み締めていた。

 

9日目 1日後 五十嵐靖晃

「帰国」

 

 ブータンから日本へ移動する日。昼の11:20パロ発の便でバンコクに向かい、数時間バンコクの空港に滞在し、夜の23:50バンコク発の便で成田に向かう。機内で一泊して翌朝4月3日の朝8:10に成田に到着した。そしてそのまま、その足で、昨日から今日までアーツ千代田3331で開かれている、東日本大震災復興支援アートアクション「いま、わたしになにができるのか?—3331から考える」に向かうという2日間の動きだった。

 

 ブータンを離れる朝を迎える。8時ロビー集合。空港に向かう道中、地元の学校の駅伝大会が始まろうとしていた。道中点々と人が集まっている。ブータンにも駅伝あるんだ、、、などと車窓を流れる景色を半分寝ながらぼーっと見ていた。

 

 9時過ぎにパロの空港に到着。今回、とてもお世話になったガイドのリンチェンさんとドライバーのキンレイさんとお別れである。この2人はほんとにいいコンビで、さんざん笑わせてもらった。毎日一緒だったこともあるし、ワークショップも一緒にやってくれたし、ガイドとドライバー対外国人という垣根は完全に飛び越えて、既に仲間のような感覚になっていた。

 

「リンチェンさん。今回のガイドどうだった?」「こういうの、わたし、はじめてで、おもしろかった。つぎきたら、わたしまたガイドします」その様子を、いつも通り少し離れたところでキンレイさんがニンマリしながら見ている。だいたいこんな感じだった。次回も是非このコンビにお願いしたい。

 

 そう。また来るんだなと、思わせる国である。なんというか、はるか遠くの外国というより、ちょっと離れた日本の故郷といった感覚である。初めて来たにも関わらず懐かしさと親しみを感じた国だった。

 

 尾翼に描かれたブータン国旗とそのむこうにある近い空をしっかりと目に焼き付けて飛行機に乗り込んだ。

 

 パロ→バンコクもバンコク→成田も、飛行機の中ではほとんど寝ていた。ブータンでは朝から夜までがっつり動いていたので、かなり疲れていた。バンコクでの乗り換えを待つ時間は、書き切れなかった日記を書いていた。

 

 4月3日の朝、日本に到着。成田空港でまず目についたのが、動いていない動く歩道。そこには震災の影響による節電です。と書かれた貼り紙がしてあった。外から帰ってきて思ったことは、日本は、特に東日本は大きなプレッシャーの中で生活しているということだ。それは震災を受けて以降、余震への恐怖心や、放射能への不安感といったものが、連続した毎日の中にあり、それを皆同じように暮らしているから、無意識でも、それに慣れてしまわざるを得ない。

 

 そこで考えられることと、離れて考えられることは違う。日本を離れる時もそう自分に言い聞かせていた。

 

 3331に着くと、出発前に被災地である水戸からメールをくれたご家族と偶然再会することができた。「おかえり」と言ってくれる。僕は「ただいま戻りました。」といってブータンの話と水戸での被災の話を交換する。僕にとって初めて会った被災者でもあった。正直、会えただけでとても嬉しかった。でも当然ながらその表情はいつもとは違うし、その雰囲気から僕の想像では及ばないストレスを感じる毎日の中にいたのだと理解した。

 

 離れたから考えられること、むこうで得たものを被災地に届けられるかもしれないと思って日本を出たが、むこうで全力で土地と人と向き合って動くには、ある程度気持を切り替えざるを得なかった。結局、できることは、現場に行かないと分からない。それはブータンでも被災地でも同じである。そこの土地と、そこに暮らす人達と向き合った時に初めて、僕が本当にやるべきことがはっきりするのである。

 

 土地に入って活動する時、全力で向き合う覚悟がなければ、何も伝えることなどできない。

 

 行く前と行った後と何が変わったのだろう?

 

 空にほど近い、日本のふるさとからの「幸せとは何か?」という問いかけが僕の中に響いている。間違いなく持ち帰ってきたものの1つはその問いかけだ。

 

「幸せとは何か?」その言葉に、記憶がよみがえる。過去の日記を捜す。それは6年前、4ヶ月間ヨットで太平洋の島々を旅した時の最後に、自分のためだけに書いた日記の中にも記されていた言葉だったことに驚いた。

 

そこにはこう綴られていた。(一部のみ抜粋)

科学技術の発展と共に人はどんどん退化しているように思う。退化だけならまだ良いが生きていく豊かさすら既に日本という先進国では見つけづらくなっている。みんな何処に向かって行けばいいのかよくわからないのだ。何が幸せなのか。どうなりたいのか。生きているリアリティを感じたいのだ。今まで人類は世界を理解するために数々の方法を編み出して、それを説明しようとしてきた。理解できない何か全てものを説明するために、人は宗教を作り、その長く続いた時代が終わり、科学の時代が来た。科学で世界の全てを説明しようと理解しようとしてきた。それは結果的に利便性と引き換えに心の豊かさと、生き物としての強さと可能性を危険にさらすこととなった。どの時代も必ず終わりが来る。飽和状態となって終わりが来る。そもそも全ての説明をすることなどひとつの考えでは不可能なのだ。あり得るとしたら、世界は自分があるから存在するわけであって、その自分というのもを高めること。宗教でもなく科学でもなく自分を研究することが一番重要で一番豊かに生きることができる唯一の方法なのだろう。誰かの真似をしたところで決してその人以上にはなれないし、むしろ気づいた時に死にたくなるだろう。いったい今まで何をしてきたのかと、、、。アートはそれを常に実験している。

 そう、僕は僕の人間性の追及をしたいのである。人間らしさを研究したいのである。豊かに生きるために、それを発信するのは豊かに生きるために何かを探して喘いでいる姿を見せるようなもの、でもその姿を見てそれから何かを感じてくれればそれこそが表現なのではないだろうか。そして見た人が自分で探せばいい。自分にしか見つけられない自分を、、、。

 

そういえば、あの時、航海を終え、展覧会場であった水戸に帰ってきた時に、初対面で、水戸駅前で会って「おかえり」と言ってくれたのも、今日3331で会った水戸のその人だった。

 

あれから6年経つ。海のむこうを見てきて、近くに空を感じてきて、少しはその答えに近づいているのだろうか?

 

それは僕がこれからも活動を通して体現していくしかない。

 

ブータンの飲み屋で会った酔っぱらったおじさんに「お前の幸せはなんだ?」と突然聞かれたことがあった。僕がうまく言葉にして答えることができずにもごもごしていると。

 

おじさんは「オレの幸せは、次の世代につなげていくことだ」と言っていた。

 

空港に向かう道中、地元の学校の駅伝大会が始まろうとしていた。道中点々と人が集まっている。ブータンにも駅伝あるんだ、、、などと車窓を流れる景色を半分寝ながらぼーっと見ていた。

 

今考えると、あれが今回最後に見つけたブータンだった。

7,8日目 写真


7,8日目 北澤潤

2011331日 41

 

 残りの数日間は、《School of Sky》が終わった余韻のなかで過ごした。そしてブータンとの関係はこれからも続くことを理解する日々となった。

 

 日比野さんと五十嵐さんと三人で、首都ティンプーの各所を訪ねまわる。62mの大仏をみたり、伝統的な美術学校を訪問したりという観光的な動きと同時に、大学でのレクチャーや政府の要人とのミーティングをおこなった。ブータンの偉い人たちにひたすら会いまくってきた。なぜかというと、日比野さんが日本とブータンの観光大使であるということを切り口に、ブータンにおけるアートプロジェクトを将来的に仕掛けていくことを企図しているからである。

 

ブータンの人と話していると日本人とブータン人はとてもよく似ていると言われる。私もそう思う。五十嵐さんはチベット、私はデュパと言われる。大きく5つの地域に別れ言語も異なるブータンのなかで五十嵐さんは北の方のチベット由来の民族、私は中央のブータン古来の民族に顔が似ていると言うわけだ。ブータンを現場とした活動とともに、ブータンと日本を繋げる活動にも可能性はあるだろう。民族の距離を超えた類似性の探求、経済発展の果てのような日本列島といままさに発展と伝統の狭間に立たされているブータンの比較。

 

ブータンには舗装された道路はまだまだすくない、橋もすくない、トイレは全てバケツの水を桶を使い自分で流す。こういった状況をひとつひとつ改善していこうとしている。要するに「次の生活」をつくろうとしているのだ。我々のもつブータンに対するイメージのひとつであるGNH(国民総幸福量)という概念が、人間の幸福とは何か、という問いを発する基準であると外部は思うが、直接会った観光局の長官や外務大臣の言葉からは特にそう伺い知ることはなかった。生活を整え発展させていく、日本は他国より急激に発展したのでお手本だ、と言う訳だ。

 

31日にあった観光局長は日本でのブータンの認知度をあげてほしいと言う。観光がおおきな産業であるブータンにとって、米国に次いで観光客の多い日本は重要な国であることに間違いはない。外資も重要であるので、ブータンに投資してもらうために認知度はとても重要だと語る。

 

この国のもつ日常の美しさを失ったらきっと観光もなにもなくなるだろう。都市化しつつある首都ティンプーはすでに旅人の理想を大きく裏切る様相である。もっとブータン古来の日常性を尊重した観光政策が必要とされるだろうと日比野さんが観光局長のワンゲさんに伝える。そしてここでアートの力を使えないか、ということなのである。国の観光を左右する規模の大きな物語だ。

 

簡単に整理すると、ブータンの日常生活がもつ豊かさを観光客は求める、それなのに局長のいう松茸祭り等のコンサル的イベントはなかなか悲惨である。ただ日常生活を見せようというのもまた難しい。家を皆でつくる姿が面白いので観光資源にしようとすると観光化された文化に一気に置換されてしまう。観光客が来たから一生懸命家をつくり、いない時はつくらないといった目的不純な観光文化が創出されてしまう。これは観光客と土地があまりに表面的な接点しか持たないという前提が大きな問題となっているだろう。記念写真とか、ガイドの説明を聞くとかいう単純な接点。

そこで地域と余所者の関係性を絶妙に複雑化する可能性をもつアートプロジェクトはどうかということだ。日本での認知度アップ、観光人口の増加、経済発展といった行政的条件とどう付き合うかが難しい。

 

このまだ特に決まっていない壮大な計画を、数ある条件とすりあわせてつくっていくことになるのか。今回の滞在と《School of Sky》は、最初の事例をつくるという目的をもっていたわけだ。BBSの波及力はすごいので放送でかなりの人がその事例を知っただろう。

 

Druk Schoolでのとても近い関係性、そこから、国と国の関係性まで。どちらも同時にうまく構築するにはどうするのが面白いか。そんな思案を、大臣との会食や、観光、夜中のブータンビールやピーナッツマサラをつまみながら考えていた。

 


7,8日目 五十嵐靖晃

「最後の2日間」

 

 ワークショップ「School of Sky」を終え、ブータン滞在は一区切りついた。残りの2日間はブータンの外務大臣や観光局長に会ったり、ロイヤルティンプーカレッジでブータンでの活動を講演したり、伝統美術学校を訪問したり、といった動きの中で、ブッダポイントと呼ばれるティンプーの町が見渡せる山の上に建設中の巨大な仏像を見にいったり、ドチュ・ラという標高3150mの山頂にある108個の仏塔を見に行ったり、少しだけ観光もして過ごした。また夜は、仲良くなった友人のソナムに誘われ、表層的な観光では出会えないブータンの若者達の集うシェアハウスに単身乗り込んで、酒を呑んだり、クラブに踊りに行ったりもした。

 

この2日間は、偉い人から今時の若者まで、自然や伝統的な暮らしから都市の暮らしまで、ブータンの表と裏。理想と現実に出会うこととなり、この国の状況であり真実であり問題を自分なりに把握した。そして、この国の未来の可能性に関わることになりそうな予感を感じ。きっとまたこの国に仕事をしに来るんだなぁと、ここで何かをしている自分を漠然とイメージしたのであった。

 

 外務大臣や観光局長に会って話をする理由は、昨日(30日)にブータン入りした日比野さんがブータンの観光大使をしているからだ。特に観光局長との話が印象に残っている。彼が強く言っていたのは、日本におけるブータンの認知度を上げ、観光客を増やしたいということと、はじめての観光大使である日比野さんへの期待は大きいということだった。

 

 ブータンに来る観光客で一番多いのがアメリカ人、次に多いのが日本人。どうしたらもっと観光客に来てもらえるようになるだろうか。観光局長なのだから考えるのは当然である。彼らが考えていることの1つはマッシュルームフェスティバル。ブータンはマツタケがたくさん採れる。しかもブータン人はマツタケより、なにやら黄色くて小さい同時期に採れるキノコの方が好きらしく、マツタケはいくらでもあるのに、キノコシーズンに来た日本人にマツタケを出すと喜ぶ。だから認知度を上げるためにマツタケはどうだろうかということだ。やり方次第の部分もあると思うが、地方物産展をイメージする。マツタケを食べにわざわざブータンまで行くだろうか。

 

 日比野さんはアートが観光の力になるという話をしていた。例として上がったのが、越後妻有大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭だ。そこではアートがきっかけとなり、妻有の里山や瀬戸内の海といった自然を見に、その土地の人達の暮らしや温かなおもてなしに出会いに沢山の観光客が訪れている。ブータンには美しい自然とそれに寄り添った暮らしが今も機能して残っている。

 

 ブータンの人にとっても、美しい自然は分かりやすい。では、分かりづらいであろう暮らしの魅力とはなんだろう。そこで、例として上がったのが、初日に僕らが出会ったパロの建設現場である。そこでは、役所の要人が住む家が建設されていたのだが、日本のように建設業者が建物を建てるのではなく、村ごとに持ち回りで数週間ごとに交代しながら、村人達が建物を建てていた。子供から大人まで、そこには老若男女がおり、時にワイワイと、時にのんびりと皆で共同作業をしている雰囲気に惹かれ、2時間ほど作業に参加させてもらった。とても楽しい体験だった。自分たちの村の建物は自分たちで作るということだ。

 

 だが、この話をして心配になった。仮にこの作業に参加できることを観光体験の1つにしたとすると、最終的には観光客が参加するための家づくりをすることになってしまう。観光化された伝統的な日常生活ほど悲惨なものはない。

 

 また、実際に来てみて感じたのは、ブータンは今、地方で生きている伝統的な生活と、首都ティンプーの都市化する生活の歪みを抱えているということだ。観光局長曰く、戦後急激に発展した日本をお手本に生活を改善していきたいということらしいが、日本からきた我々が魅力的に思うのはむしろ伝統的な暮らしの方である。

 

 僕はその後、ブータンの現実の一側面に出会うこととなる。31日の夕食を終え、滞在中に仲良くなったソナムやその友人達が集うティンプーにあるシェアハウスに誘われ遊びに行った。シェアハウスはコンクリートの新しい建物でシャレている。大学時代からの友人達24か25才くらいの若い仲間が仕事を終えて夜に集う場所だ。職種は様々でテレビレポーター、歌手、高校の先生、ローン会社、現在無職など様々だが、そこにはテレビやインターネットがあり、酒も飲むしタバコ(パブリックスペースで吸っているのが見つかったら3年刑務所に入るらしい)も吸う。格好はジーパンにTシャツにスニーカー、女の子はスリムパンツを着てたりする感じで日本とほとんど変わらない。この日は僕が伝統衣装の「ゴ」を着ていたから、日本人が「ゴ」を着て、ブータン人がカジュアルという、なんともヘンテコな状況だった。着いた時にはみんなはもうかなり酔っぱらっていたこともあり、突然訪問した僕にも親しく普段通りに接してくれた。

 

 深夜に高台にあるラジオ塔までドライブしてティンプーの夜景を見に行ったり、外見は真っ暗でドアの隙間から微妙に光の漏れているような、知らなかったら決して入れない郊外の隠れた飲み屋のような場所に行ったり、結局、朝5:00頃まで飲んで、その日はホテルに戻らずにシェアハウスで仮眠させてもらった。朝起きるとみんな「ゴ」に着替えて出勤である。自分も一緒に出勤する車に乗せてもらいミーティングに向かった。別れ際はフェイスブックやってるからメールするね。といった感じ。

 

 これもまた僕が出会ったブータンの現実である。観光ガイドで紹介される桃源郷のようなブータンの対極にある部分だ。表層的な観光をしたって決して見えてはこない。

 

 観光の話に戻すと、観光局長からの相談は「今後、このブータンという国はどう進んでいくべきなのだろうか?」ということなのだろうと思う。これは国の行く末であって、少し話が大きすぎる気もするが、観光を国の収入源としてやっていくということは、国をどうつくって伝えていくかということだ。しかも観光資源は美しい自然と伝統的な暮らしである。

 

沖縄、タイ、、、など想い描いても、どこの国もうまくいったためしがない。観光客が自然を踏み荒らし、現地の人は金銭収入が生きる目的となり、最終的には表層だけの伝統文化が残り、暮らしの中での機能を果たすことは二度となくなる。

 

 出会った若者達からも分かるように、今という時代に世界と繋がることを避けることはもうできない。利便性や経済的発展を求める意識も強くなるだろう。

 

ここで考えるのが、この国が掲げるGNH(国民総幸福指数)である。「幸せとは何か?」この問いかけに、世界を知った上で、この国の人達は何を選択し、どう生きていこうとするのか。

どこの国もできなかった第3の選択をできる可能性を僕はブータンに感じている。

 

経済的発展と引き換えに日本が失った、美しい日常生活。ブータンにはまだそれがある。だが、世界と繋がりながら、その美しい日常を維持し、観光として伝えていくことは簡単なことではない。

 

そこでアートの力が役に立つのではないだろうか、アートプロジェクトがその美しい日常を伝えていく可能性をもっているというのが、観光局長への日比野さんからの提案であった。そして、今後、ブータンで展開していきたいアートプロジェクトの構想を、この時に伝えたのであった。GNHを実現化させるためのアートの役割。実は僕もこの時に、はじめてちゃんと聞いた。

 

僕は、アートプロジェクトには土地と土地、人と人、土地と人、といった既にあるものに対して新しい関係性をつくる力があると考えている。もっと簡単に言うと、その地域に訪れた人と、地元の人をごちゃ混ぜにし、交流させつつも、その土地の持つ魅力や美しい日常を問題提起も含めて伝えていくことができる。また、そういった役割を担っているのだと思う。

 

国の未来と観光とアートプロジェクト。なんだかとても壮大な話のように思えるが、Druk schoolに訪れた日本人アーティスト2人と、20人の生徒と、美術の先生と、校長先生、あとガイドと運転手で巻き起こした「School of Sky」が結果的にその最初の一歩となったに違いない。

 

どこに行って何をするか。はっきりとは分からないままブータン入りしたわけだが、ただやれることを全力投球で限界までやってみた結果が、今後の構想の中での最初の役割をちゃんと果たしていたことを、最後の2日を通して確かめることができた。

6日目 写真





6日目 北澤潤

2011330

 

 今日の日記は全くどうまとめていいのかわからない。ありえないことがいくつも起きてしまった。それはどれもとても小さい事件なのだけど、私はその都度、大きく揺さぶられる。

 

朝はいつもどおり少しの寝坊。820分出発の予定が、朝食をホテルのレストランでパックしてもらって10分遅れ。ドライバーのティンレーさんは、「わたしうんてんうまいからだいじょぶです」と言ってくれる。車に乗りながらの更なる問題は天気である。小雨だ。《School of Sky》と言っているだけに、快晴が望ましい。グラウンドで実施できる可能性について冷静に判断が迫られるだろう。

 

校門をはいったら校長先生がいた。いくつか調整をしましょう、と言われた。なんの調整なのかわからないまま、青いカーテンがドアにかかる校長先生の部屋にはいる。

調整の内容は今日の《School of Sky》をどのように行うか、についてだった。雨が降りそうだがどこで行うのか、他の学年の生徒たちも集めたいと思っているのか、その場合椅子に座らせるのかどうなのか。当日の朝になって急に諸々の相談をもちかけてくれることに、ありがたいながらも不思議に感じていた。

 

 校長先生に初めて会った4日前、「イーゼルは必要なの?スケッチブックは?」といった類いの心配はされたのだが、当日の今日、その内容はがらりと変わっている。私や五十嵐さんから《School of Sky》について校長先生に説明したことはなかったので、おそらく昨日のチラシを生徒から手渡されたことによって《School of Sky》の内容を把握し、校長先生の心配する項目が変わったのだろう。しかも、積極的に手助けをしようとしてくれている。

この変化は彼女のなかでのアートに対する前提が変わったとかいう大袈裟なことではない。我々が毎日朝から夕方まで学校にいて、準備やワークショップをおこなっていること、Sky Bedというカタチを見た事、子どもたちが一生懸命にチラシを配っていた事など、動き回る《School of Sky》メンバーを校長室の2階の窓から眺めていたり、ランチタイムに我々と会話した経験の積み重ねによる、身近なリアクションであることは間違いない。

 

五十嵐さんと相談した結果、このまま曇天の空を眺めていてもしょうがないので、ポジティブに晴れることを想定して午前中から我々で場づくりをすすめていこうということになった。ワンガさんと3人でSky Bedを円弧状にグラウンドに配置していく。手作りなので背の高いもの低いもの、布がやけにたわんでいるものなど様々だ。バランスをとりながら着実に配置を確定した。今日に至るまで何度もSky Bedに子どもたちが乗っていたためにぐらついているものが幾つかあったので補修も始める。竹材を差し込んで強度をあげる。陽気なガイドのリンチェンさんは「これごふんでできるね、もんだいない。」というがいくらデュパたちの技術をもってもその時間は有り得なかった。

ひとつひとつ直していると、あるサプライズが起きた。20人の子どもたちが集まって来たことだ。今日の活動時間は午後1時から3時までと決まっていたはず。1時から1時間で最後のリハーサルをおこない、2時からの本番に備えるスケジュール。それなのに午前中から活動することに担任の先生が了承したのだという。先生たちの間でなにかのやりとりがあったのは間違いないが、まさかの展開。これで授業を準備する時間がちゃんととれる。元々のスケジュールだと、内容がちゃんと詰められないまま本番という危うい状況になると思っていた。

 

チミとチェッツォが寄ってくる。Englishチームの授業で使用する「空に関するキーワード」を紙にかいてきた。自主的につくってきたことで英語班について少し安心するが、ここで彼らに追加情報を伝えなければいけなくなった。校長先生の計らいによって《School of Sky》に参加するために200人の生徒が集まるという仰天のお知らせだ。みんな目が点。授業のプランを変更する必要がでてきた。多くのオーディエンスを飽きさせないように短い授業時間をちゃんとデザインしなければいけない。まずキーワードをオーディエンスに見えやすくするため黄色い布に大きく書きはじめた。

 

その間に五十嵐さんが様子を見ているMathチームにはいる。こちらにもすでに200人が見にくることが告げられていてリーダーのキンケンは焦っていた。白い眼鏡をしたタシデマはMathを教えるための問題を考えてきていて頼もしい。キンリーとイシャの仲良しコンビはなぜか二人で紙に向っている。さらに私たちも予期していなかったBBS(ブータン国営放送)が取材に来るという超仰天情報が追加された。キンケンの顔がひきつった。

 

Englishチームリーダーのトリスンが泣きだした。これには完全に不意をつかれる。理由はいまでもはっきりと分からないが、Englishチームの女子たちとうまくいかないようだ。男子の多いMathチームにはいるといって聞かない。わめき泣くのではなく静かにいじけるからむずかしい。キンケンは賢いトリスンをMathチームに入れさせてくれと、ちっとも男らしくないことを言っている。女子たちとトリスンを説得し、何とかEnglishチームに留まってもらった。

 

トリスンをゲットする可能性を失い追い込まれたMathチームはようやく自分達でやるんだ、という気持ちをもちはじめ猛スピードで授業を構築する。もちろん何人かがサッカーをしたり、緑の葉っぱを両手にこすりつけたり、自由でバラバラな危機的状況は変わりないのだが。

 

五十嵐さんはハードであるSky Bed の強化に完全シフトし、私がソフトである両チームの授業案最終決定をアシストする。

 そして、このタイミングで日比野さんが到着。我々より5日遅れのブータン入りだ。ここブータンにおいてアートプロジェクトの事例をつくるアーティストとして五十嵐さんと私を呼び込んだ張本人である。五十嵐さんがいまのこの状況を伝えた。

 

本番20分前のリハーサル。みんなちっとも集まらない。椅子が足りない。トリスンがまた泣いた。なんとか始めるが英語チームのプログラムは難易度が高すぎてここにきて保留、数学チームは内容が少なすぎてすぐ終わってしまった。ぐずるトリスンがなんとかもどるがスピーチの内容を書いたノートは破れている。ぐだぐたなまま本番5分前、Englishチームのカルマと五十嵐さんと私で最後の最後にミーティング。保留されたプログラムを再構成する。「Important」と何度かいうと、カルマは「Yes sir.」と答えた。会場であるフットボールグラウンドには続々と生徒や先生があつまってくる。おかしい、これは200人を明らかに越えている。尋ねてみるとなんと全校生徒を集めてしまったらしい。

 

こんな状況で私は圧倒的に彼らの可能性を信じようとしていた。トリスンは一度は泣き止んだし、キンケンもスイッチをいれて頑張っている。スピーチする先生役のレッドやチミやリディやタンディも自分で真剣に用意を進めている。きっとできる。

 

いくつかのボーダーラインを越えなければいけなかった。先生と生徒の役割。オーディエンス600人と主役の20人。私と五十嵐さんの尊重し合いながらも重なりはしない作家性、被災しているふるさとと4,700km離れたここブータン。

 

結局私はそれらを越えられなかったのだと思う。自分の中にひっかかっていた多くの対立事項について、《School of Sky》がはじまる直前まで何ら解決策は思いついていなかった。

 

円弧状におかれたSky Bed600人のオーディエンス、ブータン唯一の放送局であるBBS。会場は整った。最初は私と五十嵐さんが挨拶する予定だったのだが、きらびやかなキラ(ブータンの女性が着る民族衣装)を着た校長先生がみんなの前に立つ。日本からはるばるやってきた私たちへの感謝と、我々が抱えていた日本に起きた震災という悲劇について言葉を丁寧に結ぶ。そして彼女は全員に対して1分間の黙祷をお願いした。あのやんちゃな生徒たちが目を閉じる、私も一緒に目を閉じる。

 

とても長い時間が経ったあとのようだ。ゆっくり目をひらく。その後Druk Schoolの校歌をみんなで歌った。

 

ようやく我々の出番だが、もう対して言葉はいらない。感謝の気持ちを伝え、宣言をした。「We open the School of Sky.」大きな拍手とともに五十嵐さんが鐘をならす。カンカンカン。この鐘は普段Druk Schoolで使われている授業のはじまりとおわりを告げる手動チャイムだ。

 

トリスンにマイクが渡った。私たちのEnglishがはじまる。本日2度泣いたとは思えないほどすらすらとオープニングスピーチを飾り、レッドにバトンタッチ。女子メンバー11人が空に関するスピーチを行う。レッド、リディ、チェッツォ、アスミタ、タンディ、ナウワン、チミ。思えば、準備の後半このメンバーはスピーチをひたすら考えていた。なかにはpoemを披露する人もいた。様々なスピーチが連続するこの時間が、次の展開につながる。カルマの出番だ。

マイクを握り、「今度はこのスピーチを先生たちにやってもらいます。いまから5人の先生を選びます。」そういって選ばれた先生たちが黒板の前にやってきて、カルマの持つ袋から黄色い布を掴み出した。ひらくとEnglishチームが考えたトピックが書いてある。このトピックについてのスピーチを即興で発表してもらうという何とも厳しいオーダーである。先生ならできるでしょうという私たちと子どもたちからのハードルだ。

生徒が先生で、先生が生徒になる。まずは校長先生。トピックに沿った作詞をおこない歌いはじめた。一度終わって拍手をもらったのだが気持ちよかったのか、更にうたい大きな拍手が帰ってきた。さすがプリンシパルそうきたか、と感心してしまった。次に選ばれた先生は、「Why the sky dark at night?」というトピックを引いた。そしてなぜかこのトピックに対して答えたい生徒はいるか、とオーディエンスに投げて子どもに答えさせた。数人の子どもが答えた後に自分のコメントを付け加えるすがたを見て、生徒の前では教師らしくいるということが体に染み付いているのだろうと思った。生徒(トリスンやカルマ)から指名されたこの状況で更に生徒を指名したことは、子どもに助けを求めたかのよう。Englishチームから向けられた先生への圧が「教師」という日常の配役を暴きだした、と私は1人のオーディエンスとして見ていた。歌を歌ったり、子どもを呼んだり、スピーチしたり、先生が次々に技芸を披露していく。

先生たちによるEnglish スピーチが終わると、次はMathの時間なので、マイクを受け取ろうとしたらトリスンが渡さない。カルマと二人で何かを言い、大きな声で歌い始めた。全く意味が分からず動揺する五十嵐さんと私を尻目に全校生徒も歌いだした。何だこの状況は。全然わからない英語で予定にはいっていなかった歌を周りの全員が歌っている。どうやら「空」に関する歌をみんなで歌おうと二人がマイクでけしかけたらしい。この場に慣れてきた二人の主役がオーディエンスを味方にして私の想定していた《School of Sky》とはちがう物語をつくる。泣き虫とおふざけ者に我々はまんまとやられてしまった。

大合唱が終わるとMathチームが前にでる。私がEnglishの終わりとMathの始まりをただ短く伝え、五十嵐さんが鐘を叩く。二人とも自分達のすべきことはもうこのくらいだと把握していた。

 

キンケンのスピーチが始まる。

 

Good Afternoon to you all respected Principal and vice Principal teachers and my dear friends. Today we the team of School of Sky is going to change teacher and students responsibility. Teacher as student and student as teacher. Our team is going to teach maths. Our team members are Rinzin,Kinley,Esha,TashiDema,Kinzan and myself.

 

もうほうっておくことにした。驚くほど本番につよい。キンケンがリンゼンとキンザンにマイクを渡すとMathの授業がはじまった。数式を書いては先生を指名して、前に出て答えを書かせていく。なかなか挑戦的で2問目はmathの先生を指名した。こんなに多くの人に見られながら、出題に答えることは先生もしたことがないだろう。

 

さきほどと違って先生が数式を答える時間は静かになるので、P.P.8学年の内の最低学年、5歳のクラス)がざわつきだすが私は特に何もしない。オーディエンスのさらに外、植え込みから写真をとりながら自分の中の色んなことが緩やかに剥がされていくのを感じていた。全校生徒の黙祷にはじまって、トリスンの勇気、カルマのナレーション、キンケンのスピーチ。一昨日知り合ったばかりの20人の若き精鋭が私の中のひっかかりを次から次へ越えていく。私は自分だけでは越えられないものを他者と共にもしくは他者によって越えられる、その瞬間に居合わせていることに気づきはじめた。

 

タシデマが分数について、イシャとキンリーの小さなコンビが図形の種類について解説をする。紙にかいた図式や図形をみながらマイクをもってオーディエンスに向って説明している。背丈の小さな先生たちの言葉に集中して、もっと英語を勉強しておけば良かったと心底おもった。

 

また鐘が鳴る。Mathの終わりだ。私と五十嵐さんが前にでて、私たちも彼らと同等にP.Eチームとして授業を考えていた。直前まで二人で話し合ったが、どれだけ自分達で授業を考えるのが難しいか、子どもたちにどれだけ難しいオーダーをしたか、そしてそれをやってのけたことが如何に大変なことか、いざ我々がやるとなって気づくこともたくさんあるだろう。

School of Sky》の体育としておこなうのは「Sky Bed を使って空を眺めること」。これは五十嵐さんがやろうと言い出したことだった。すぐ近くにある空を自分達でつくり、そこからもう一度空を見る。ここまでやることがSky Bedをつくることから始まる五十嵐さんのワークショップとしての筋書きなのだと思った。空に対して空をつくる五十嵐さんと学校に対して学校をつくる私のアーティストとしてのポイントが《School of Sky》の中で複雑に交差しているのがこれまでの日記とここでP.E.の授業としてこの行為を行うことで読み取れると思う。

生徒を5人選び、Sky Bedに寝てもらう。1分を心の中で静かに数え、ちょうどだと思うタイミングで起き上がる。ゆっくり静かに時間と空を感じる。オーディエンスはSky Bedの周りにあつまりじっとみつめる。ゲームとして成立させるために、トーナメント制にして予選を3回、決勝を1回おこなった。なんと優勝はキンケン。決勝には五十嵐さんも参加したが負けていた。

また鐘がなる。最後にサプライズでArtの授業として、日比野さんにでてもらう。日比野さんのワークショップをどのタイミングで行うべきか自分の中で本当に悩んだのだが、《School of Sky》の中に組み込むかたちになった。はさみと紅白の布が生徒全員に配られ、青い布が真ん中に敷かれた。白で雲、赤でハートのカタチを切って貼る。日本でおこなっているハートマークビューイングである。状況を読んで震災については語らなかったが子どもたちは一気に席を立って青い布に集まった。時間がかなり押していたのもあり、貼り終わるとクラスによっては教室に戻っていくオーディエンスもいた。20人のメンバーが600人全員の前で終わりの号令をするというところまでやるべきだと考えていた私にとって、人がどんどん減っていくこの状況は歯がゆいものだった。

 

だんだんと青い布が埋まり、良き所で鐘が鳴った。閉校式がはじまるのだ。20人が黒板の前に1列に並び、いつのまにか全体のリーダーのようになったトリスンが挨拶をする。「Good afternoon. Now we are closing School of Sky. Bye Bye.」格好良くて、泣けるシメである。最後にみんなで「School of Sky!」と叫ぶ。1回、2回、3回、なかなか終わらない。これを言い切ったら終わることをみんな分かっていた。よきところで「せーの」と私がいうと、これまでで一番大きく元気な声で「School of Sky!!」と返ってきた。自然と彼らに歩み寄り、握手をしていった。小さな手と交わした20回の握手を私は忘れない。もう一度鐘をならす。落ち着いた。トリスンがまわりとこそこそ話している。「Sayonara!! Thank you Jun and Igarashi!」男子数人が叫んだ。マイクを離さなかった理由はこれか。「ありがとう、さよなら!」我々はゆっくりと片付けをはじめた。

 

Sky Bedを解体する。つくるときは時間がかかるが片付けはなんとあっけないのだろう。竹を結う縄はポリバケツ一杯分、空の布は5枚、そのうち1枚を作業場にしていた緑の屋根にくくり残す。校舎に貼ってあった数枚のチラシは丁寧に剥がして自分のファイルにいれた。今日のことをだれかに伝えるために、私の中にずっと残すために。

この学校にとって、あの20人にとって、《School of Sky》の時間はあまりにも短い。でも日本から来た我々と共に、一緒に学校全体を巻き込む出来事を起こしたこと、それには短いながらも多くのハプニングがあったこと。できたこととできなかったこと、嬉しかったこと悔しかった事、泣いた事叫んだ事、その時間が《School of Sky》というワードをたとえ忘れても彼らの中に生きていくのであれば、それでいいだろう。ようするに今回様々に我々を裏切ってくれたことを誇りに思ってほしい。

 

別の視点から考えてみると、この時間によって日比野さん、五十嵐さん、そして私、3人のアーティストがもつ手法の違いが子どもたちによって明解にみせられた。つまり1人の呼びかけによって周りの全員がすさまじい一体感をみせる日比野さんの手法、空をつくり空を見る、自分自身の行動を周りに伝播させ共有する五十嵐さんの手法、全体のうちの一部に働きかけることによってその人たち対周りというアーティストが脇役となる状況をつくろうとする私の手法。個人的には自分のやり方というのをハッキリと認識させられた感覚がある。学校のなかの一員だった数人が、学校という全体に大して紙をひっくり返すように立ち向かっていく。その初動とアシストを私がさせてもらうことで、新しい関係性をともに「やってしまっている」状態を今回とてもわかりやすく目の当たりにしてしまったからだ。ひとつの現場に3人が介入することによって、それぞれがアーティストとしてのスタンディングポイントを見せつけられたと私は捉えたい。そして、20人のメンバーによる予想を越えるアクションの数々によって私たちの手法などというものは関係ないと思えるほどの創造的瞬間を見せつけられ続けたことにたった1時間の《School of Sky》を最大に評価したい。

 

とてつもない勢いで子どもたちからのサイン攻めにあった。五十嵐さんも同じ状況だった。何人に書いたか見当もつかない。校門の前で大勢に囲まれている私を少し遠くからトリスンが見ていた。「You don’t need to cry.」と私が言う。「Yes, I will never cry sir.」と彼が言った。

 私たちはDruk School をでた。

 

3日間とは思えない日々がようやく落ち着いた。

 

6日目 五十嵐靖晃

「School of Sky 3日目」

 

 ワークショップ3日目。今日は3日間のワークショプの最終日。「School of Sky」の開校日であり、3日間の活動結果を学校に対してプレゼンテーションする日でもあった。1日を振り返ると、いろんなことが起こり過ぎていて、頭の中が整理できていない。ホテルに戻って深夜1時を過ぎても僕と潤はどちらも今日の話を止めようとはしなかった。今考えていることや、今の気持が通り過ぎていってしまうことが怖かったのだろう。僕らはベッドに入っても、睡魔の限界まで頭と心に起きたことを言葉にして吐き出し続け、いつしか眠りについた。いわゆる興奮状態である。きっとサッカー選手が大事な試合でゴールを決めた時はこんな感じなのだろう。

 

7:30起床。ホテルのカーテンの隙間から空をのぞくと、雲は厚く、かすかに雨がパラパラとしており期待していた青空ではなかった。青空の下での開催イメージで準備を進めてきた「School of Sky」にとってかなり厳しい空模様である。これは困ったことになった。

 

8:30に学校に到着。校長先生と実施内容の確認と、雨の場合の別の場所での開催の検討をする。いくつか候補地の確認はしたが、グラウンド以外での実施は考え難い、晴れるのを期待するしかない。校長先生は言う。「私がいるから大丈夫。天気は良くなるわ。Because I`m weather woman」とにっこり笑う。彼女の印象は正にBig Mom

 

続いて校長先生からビッグサプライズを聞く。他の学年の生徒にもあなた達のプレゼンテーションを見せたいから呼ぶことにしたというのである。正直、最も小さな状況のあり方として、数人の先生が生徒となって子供達の授業を聞いてもらえれば、少し淋しいが形にはなるとは思っていた。他の学年を読んでくれるなんて、ありがたいことである。しかも、人数を聞いたら高学年のクラス200人が見にくると言う。これまでの2日間の活動を評価してくれたのだと思う。

 それと、今回、ブータンで活動してみないかと、声をかけてくれた僕らの大学の恩師である日比野さんが昼に学校に到着するということと、数日前に再会した際にこの企画のプレゼンをさせてもらったワンチュクさんの勤める会社BBS(ブータン国営放送)の取材も決まったことも、他の生徒達を呼ぶこととなった1つの要素なのだろう。そんなこんなで、「School of Sky」は様々な要素が絡み合って、たくさんの外からの視線を得ることとなり、大きな変貌を遂げようとしていた。あとは天気と授業の内容次第である。

 

僕らはBig Momを信じて、これ以上天気が悪くならないと判断し、グラウンドで「School of Sky」の準備をはじめた。今日は午前中にSky bedの配置と痛んだ部分の補修。午後1時から授業のリハーサル。2時から3時までが本番といった予定だったのだが、Sky bedの配置を終えた辺りで、午後からしか来ないと聞いていた生徒が、なぜかグラウンドに来た。事情はよくわからないが、授業内容の完成度を上げる時間がなかったので丁度よかった。そのまま子供達には授業内容を考えてもらうことにした。そして、今朝決まったこととして、200人の生徒が見に来るということと、BBSのテレビ取材が来るということも、みんなに伝えた。

 

さすがにあれだけ自由気ままにワークショップに参加していたみんなも、ことの大きさをすぐに理解し、「BBSは本当にくるの?」「何年生が見に来るの?」と徐々に表情が変化して、緊張感が出てきた。EnglishチームとMathチームと2つのチームがあるのだが、まとまりのなかったMathチーム(五十嵐担当)にもいよいよ尻に火がついた。

「100%自信あります、サー」といってリーダーになり、特に何もしていなかったキンケンはプレッシャーを感じて、リーダーを降りると言っているのに対して、見た目朗らかな雰囲気の女の子のタシデマが「あなたリーダーでしょ、しっかりしなさい」と背中をたたいている。そしてみんなで机を囲んで何やらアイデアを出し合い英文を書いているではないか。チームワークがでてきた。3日目にして、はじめての光景である。中身を読むと、授業のはじめの挨拶文だ。おお!やっと本気になった!プレシャーは人に力を発揮させる。みんな、ああだこうだと授業内容について話し合い、スピーチの自主練習まではじめている。良い雰囲気である。

 

ところが、ここで問題発生。ことはそんなにうまくは進まなかった。順調だったEnglishチームリーダーのトリスンという男の子が泣きながらいなくなった。いったい何が起こったのか聞いてみると、詳しいことはよくわからないが、どうやら意見を言い過ぎたのか何かで女子につまはじきされたらしい。とはいえ、すぐにチームに戻ると最初は思っていたが、思った以上に傷は深いようだ。しかもSky bedの修復作業で目を離したスキに、プレッシャーに押されリーダーを降りたがっていたキンケンがトリスンをMathチームのリーダーにしようと肩を抱いて話しかけているではないか!しかもトリスンもまんざらではない表情をしている。せっかくチームワークが出てきたMathチームも危うい雰囲気になっている。トリスンがやめるなら男子少なくなるし、僕もEnglishチーム抜けるなどとカルマは言い出して、授業内容はおろか、状況は崩壊の一途をたどっていた。

 

 お昼が過ぎてリハーサル開始時間の1時をまわってもトリスンは戻ってこない。遠くで説得しているワンガさんの姿が見えた。それでも来ないので1人1人のスピーチをマイクを使って練習してみるというリハーサルをはじめた。

 いよいよ時間がなくなってきた。本番開始まで残り20分くらいだろうか、ひとしきりみんなでトリスンを呼ぶ。でも来ない。いよいよ判断が迫られる。トリスンなしでやるか、どうか、、、。なしだったら、誰が変わりをやるかまで話をした。でも待ちたい、、、。一通りスピーチ練習を終えたあと振り向くと、トリスンがいた。泣きながら、破けたノートをつなぎ合わせてスピーチを読んでいる。「やれるか?」「、、、」「やれるよな」トリスンは息を引きつけながらマイク練習を終えた。何がきっかけで戻って来たのかは分からない。ただ、やると決めたことだけは分かった。このとき開始時間までもう残り10分程度。徐々に観衆となる生徒達は集まってきていた。

 

 トリスンがもどってきてスピーチ練習ができたのは良かったし、ほっとしたのだが、ここに来るまでに、あまりに時間がかかってしまった。Englishチームの授業アイデアは、お手本として空に関するスピーチをそれぞれがしたあとで、観衆の中から選んだ人に空について書かれたセンテンスをクジの要領で選んでもらい。その場でスピーチをしてもらうという内容だった。この最も大事な部分の進行役がトリスンだったのだ。なのでリハーサルはできなかった。しかもいきなり選ばれてテーマに沿ったスピーチをするのは大人にだってハードルが高い。残り数分の中、潤と僕がサポートに入って、やるかどうか、やるならどうするか、トリスンと、トリスンの代役になるかも知れなかったカルマと4人で話をする。そこで、最後の最後に出てきたアイデアが、先生達にスピーチをしてもらおうというものだった。トリスンとカルマで司会進行するしかない。「most important」潤と2人で進め方を伝えようとすると、カルマが若干挙動不振になっている。なぜなら、思ったより集まってきている生徒が多いのだ。僕らもびっくりした。なんと結果的に学校関係者全員が集まってしまったのだ。生徒と先生合わせて約600人が集まってきたのだ。聞いていた200人の3倍である。もうやるしかない。代役はいないのだ。

 

 生徒20人と僕と潤の緊張感はピークを迎え、それぞれに覚悟を決めた。空はBig Momこと校長先生が言った通りに見事に快復し、青空と雲だけがある最高の状態となり、30/March/2011 pm2:00-3:00たった1時間だけの学校「School of Sky」が開校を迎える。

 

 校長先生のイントロダクションがあり、騒がしかった600人の生徒達は一気に沈黙。日本から来た僕らの紹介、被災した日本への黙祷、校歌の合唱があり、その後、僕と潤が開校を宣言し「カンカンカン」鐘を鳴らす。普段、学校の授業の合図で鳴らす鐘である。授業がスタート。全部で4つの授業を行った。①English英語(トリスンをリーダーとするEnglishチーム)②Math算数(キンケンをリーダーとするMathチーム)③P.E体育(僕と潤のチーム)④Art美術(日比野さん)。という流れだ。

 

 まず、驚いたことは子供達がみんな見事にそのスピーチや発表をやってのけたことだ。600人の観衆を前に、午前中の動揺や、トリスン事件など全く感じさせないほどに、みんな堂々としていた。その姿はとても誇らしいものであった。気持よく裏切ってくれたと言っても良い。彼らはまったくすごい連中だ。僕と潤がしたことは授業が変わる時に次の授業のタイトル紹介と鐘を鳴らすことくらいだった。

 

 リハーサルできずにぶっつけ本番で行った、アポなしで、生徒達が指定した先生による、空のセンテンスを取り入れたスピーチも大成功で、最後まで先生という役であり殻を壊さない人。逆に少しだけ生徒らしくなった先生の姿なども生まれ、もっとも盛り上がった授業となった。

 

 唯一Sky bedを使った授業のP.E体育はSky bedの上に寝て、一分間という時間を自分の中で数え、ちょうど良い所で起き上がるということを行い、三回の予選と一回の決勝を行った。自分も決勝だけ参加したが、一分からほど遠く、優勝はなんとあのキンケンだった。まぁ、Mathチームのリーダーとしての大役も果たしたし、キンケン優勝なら良しとしよう。観衆も含めた皆で静かに空の時間を感じる授業となった。

 

 本来の狙いとしては、生徒達にもっとSky bedを授業に取り入れてもらいたかったのだが、これは少しハードルが高かったようにも思う。それと同時に、僕と潤は共通認識をして3日間ワークショップを進めて来たとはいうものの、作家として空に注目し空を作ろうとした僕と、学校に注目し授業を作ろうとした潤との間にやりたいことのズレが根本的にあったという結果なのかもしれない。

 

 Artの授業は日比野さんがゲストティーチャーとして登場し、日本の被災地にハート型に切り抜いた布を1枚の布に貼り合わせて気持を届けるハートマークビューイングのブータン版を行った。日比野さんは今日現場入りしたにも関わらず、状況を把握し、3日間のワークショップを見ていて、自分も参加したいと思っていた他の学年の生徒達の心をつかみ、見事にその場をもっていった。圧倒的な場づくりと巻き込み方は経験が成せる技なのか流石である。ただそのままの流れで「School of Sky」が終わってしまいそうな雰囲気に強い抵抗感を覚えた。このまま終わってはいけない。ちゃんと「School of Sky」の閉校を20人の小さな先生達に宣言してもらわなければ!もちろん潤もそう思っており、すぐに2人で確認した。

 

 頃合いを見て「make a line!」と何度も叫んだ。やっとこさ集まった20人の小さな先生が一列に並んで、「School of Sky」の閉校を宣言する。全体の時間が延び、場が拡散してしまったが、この挨拶が重要だったのだ。すっかり全体のリーダーとなったトリスンが閉校を宣言。

最後に「School of Sky!」「School of Sky!」と何度もみんなで大声で叫んだ。なかなか終わらない。これでお別れだということは皆分かっているからだ。何度も叫んでこの出来事をそれぞれの中に焼き付けているようにも感じた。最後の一回、大きく声を重ねて「School of Sky」は完全に閉校し、3日間のワークショップを終えた。一人一人と握手を交わす。抱きしめたいくらいの気分だったが、学校全体を巻き込む出来事を共につくりあげた仲間としては握手がちょうど良い。握った手は3日前と変わらず小さな手だが、その存在は一回り大きくなったように思えた。

 

 途中、スピーチにあった「IgarashiJunのことを僕らはずっと忘れない」この言葉が強く心の中に今も響いている。僕らも君たちのことをずっと忘れない。

 

School of Sky」を通して、たった3日間のプロジェクトとは思えないほどの様々な飛躍と発見と経験をすることができた。3日間と考えれば充分すぎる成果であったと思う。長期プロジェクトで起きるハプニングやポイントといった要点だけが凝縮されていた。そういう意味では、今までの自分のプロジェクト経験の中では過去最短である。何がこの状況をつくり出したのだろうかと考える。そして何を持ち帰ったのだろうか。

 

 まず考えられるのは、まさかの展開から当日に600人の観衆と、国内唯一のテレビ局の取材が来るということを知り、大きなプレッシャーがかかり「見る⇔見られる」の関係が突然際立つ形となったこと。そして、そこから逃げ出さなかったからこそ成長し、持ち帰る経験へとつながったのだ。特にトリスンは目の前の問題から逃げずに向き合う自分をつかみ取り、1つ成長したに違いない。また、仕掛ける側の僕らは、生徒を信じて待ち続けることと、状況の変化に対応し続けることを最後までやり通したということがある。

 

 それと、今回は潤と組んだというのが大きかった。互いを尊重しつつも作家としての個性がある以上、注目するポイントや、やり方は違う。自分にとって特に新鮮だったのが待つ時間だ。この時間は何もすることができない。ただ20人のメンバーを信じて、内面的変化を促しつつ、待つのである。待つ時間はもどかしくもあったが、そのあとの変化と飛躍には感動があった。コミュニティの一部に働きかけ、その人達とそれ以外の人の関係性を際だたせる。潤はそういった状況をつくるやり方である。

 対して僕は、コミュニティに対して、自らの行動を見せ、伝え、共に行動してもらい共有することで、その輪を広げていくやり方である。彼と組んだことで、3日間をよりスリリングに過ごし、この密度まで達成できたのだと思う。

 そして、最後に登場した日比野さんからは、その時の参加者の何かを作りたい気持ちを見事に引き出し、一体感を出しながら、鮮やかに形にしていくやり方を目の当たりにした。

 こうして3人のアーティストがそろうと良くも悪くもその影響は現場に生まれ、自分のやり方を意識せざるをえない状況でもあり、自分を再認識するには良い機会でもあった。

 

これらの経験は間違いなく今後の活動の糧となっていくに違いない。かといって全てが完璧なわけでもなく、まだやれることもあったと振り返る。プロジェクトを通してそれぞれが持ち帰るものは、この出来事に関わったその人の積極性と深度による。共に「School of Sky」を作り上げた20人の生徒の中には、うまく関われなかった人もいる。その人達をフォローすることはできなかった。もちろん全ては難しいことは分かっているが、気になってしまう。が、彼らは彼らで何か思うところはあったに違いない。その気持を大事にしてもらいたい。

 

最後に思うのはやはり環境だ。校長先生と、美術担当のワンガさんをはじめ、Druk Schoolは僕らの全ての要望に応えてくれた。学校の全面的な協力があったからこそ、僕らは3日間、自由に活動することができた。そして、ガイドのリンチェンさんとドライバーのキンレイさんも一緒になって作業に関わってワークショップを作ってくれた。このプロジェクトに関わってくれた、たくさんの人達に感謝をしている。人と出会うから、コトが起き、何かが生まれ、感動できるのだ。

 

空を眺めて、あの鐘の音を感じたとき、「School of Sky」で過ごした、今日の自分をそれぞれに振り返るのだろう。